黙示録6章
6:1 また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。
子羊が封印の一つを解きました。その時、「来なさい。」と言ったのは、四つの生き物の一つです。呼び出される者たちは、主によって遣わされる御使いですが、それを呼び出す者は、主の栄光を現す者たちで、主の栄光に従って遣わされます。
6:2 私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。
初めに呼び出された者は、「白い馬に乗る者」でした。白は、イエス様の栄光を表していて、神様の御心を成し遂げたことを表しています。この方は、勝利者であるからです。
馬が白いことと、彼が勝利者であることは、御心に適う聖い歩みをする者を表しています。弓は、戦いの道具で、それは、いわゆる患難時代において裁きのために用いられます。ただし、それは、神の御心を行うものとして用いられ、彼は、勝利を得るのです。それは、主イエス様の栄光を表しています。主の裁きは、神の御心の実現のためであり、この点に関しても主は勝利者になられます。
呼び出した第一の生き物は、獅子の顔を持つ者です。主は、ダビデの根として勝利者であり、封印を解くのに相応しい方です。
黙示録
5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」
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彼は、勝利者です。一度は、十字架で敗北者のように見えましたが、それは、勝利の業でした。父の御心を何一つ違わず、完全に成し遂げた業です。
6:3 子羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が「来なさい」と言うのを聞いた。
第二の生き物は、雄牛です。雄牛は、しもべとしてのイエス様を表しています。神の御心をことごとく、完全に行われた方です。
6:4 すると別の、火のように赤い馬が出て来た。それに乗っている者は、地から平和を奪い取ることが許された。人々が互いに殺し合うようになるためである。また、彼に大きな剣が与えられた。
火のように赤い馬は、平和を奪い取ることと関係しています。
ルカ
12:49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
12:52 今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」
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イエス様が投じようとしていた火は、信仰の火です。イエス様は、神の言葉の中に生きるために大きな苦しみを経験しました。そして、信仰に歩み続けることの模範を示されたのです。そして、弟子たちには、彼らが迫害よる苦しみを受けることを示されました。その中で、信仰を保つことが求められたのです。しもべとして神の御心に服従するのです。
裁きの時には、信者に加えた迫害が彼らに報復として返されます。人々から平和が奪い去られて、互いに殺し合うようになるのです。信者は、神の御心に従って迫害を忍び生きたのです。主イエス様は、しもぺとして御心を行い、十字架の死にまでも従われたのです。その方が迫害者に対する報復をなさるのです。
6:5 子羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。すると見よ、黒い馬がいた。これに乗っている者は秤を手に持っていた。
第三の生き物は、人間の顔を持つ生き物です。馬の色は、黒です。秤を持っていました。それは、評価のためです。
黒は、自分を覆うことの豊かさを表しています。雅歌書に詩われた「髪の毛は、烏のように黒く」と表現されていることと同じです。それは、神の御心に対して自分を覆う従順の豊かさの表れです。
6:6 私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の真ん中でこう言うのを聞いた。「小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
評価される物が小麦と大麦です。単価としては、高いですが、これは、比喩です。小麦と大麦は、人としての歩みを表しています。小麦は、聖い歩みをすることを表しています。一コイニクスの一は、独り子の御子の栄光を表しています。それを現すことに対して、一デナリと評価されます。一は、独り子の御子の栄光です。神の独り子の御子と同じ評価を受けます。主イエス様御自身が神の御心を行い、聖い歩みを現されて、独り子の御子としての栄光を現されたからです。
大麦は、神の御心に対して謙ることを表しています。神の言葉をそのまま受け入れる謙りです。その御心を完全に受け入れることが三によって表されています。そのようにするならば、独り子の御子の栄光を現すのです。そして、御子と同じ評価を受けます。
オリーブ油は、聖霊の比喩です。聖霊によって歩むことは、害されてはならないのです。大切にされるということです。神にとって貴重なのです。そして、葡萄酒は、自分を捨てることを表しています。それも、貴重なのです。小麦と大麦によって表されている人としての歩みの裏付けは、聖霊による歩みであり、自分を捨てる歩みであることを表しています。自分を捨てることは、聖霊によって歩むことと一つで、肉を殺すことであるのです。
6:7 子羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が「来なさい」と言うのを聞いた。
第四の生き物は、わしの顔を持つ者です。
6:8 私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一(を支配→に対)して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。
馬が緑なのは、命を表しています。この方は、命なのです。そして、命を与える方です。しかし、この時、裁く者として遣わされる者の名は、「死」です。そして、永遠の滅びを表す「よみ」が付き従っていました。
主は、命を与えるためにご自分の命を捨てたのです。神である方が命を与えようとされたのにも関わらず、それを拒んだことに対して、死をもって報いられるのです。
・「支配して」→補足。原語にはない。
・「青ざめた」→緑。命を表す。
6:9 子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
祭壇の下にいたたましいは、よみがえりの体を持っていません。彼らは、いわゆる主が雲に乗ってこられた時、空中携挙に与った者たちとは別の人たちのことです。彼らは、患難時代に殺された人たちのたましいです。
彼らが殺された理由は、神の言葉と自分たちが立てた証しのためです。彼らは、神の言葉に堅く立ったのです。
祭壇の下にいたのは、彼らも祭壇が要求するものを満たした者であることが証しされているのです。
出エジプト
27:1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。
27:2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。
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祭壇には、角があり神の権威を示しています。祭壇に捧げられる物がイエス様の比喩になっています。その寸法は、神の要求を表しています。五は、御心を行うことです。三は、神の完全さを表します。青銅は、神の御心を行う聖さを表しています。捧げ物は、火によって焼かれ、神の前に香ばしい香りを放ちました。イエス様は、父なる神様の求められたことをことごとく行われたからです。
殺された人たちは、命をかけて御心を行うことを求めたのです。彼らは、祭壇の要求にふさわしい者たちでした。
6:10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
彼らの呼びかけは、「聖なる真の主よ」です。聖なるとは、形容詞で、原意は、他とは異なるという意味です。世とは分離していることを表します。この世の基準ではなく、神の基準によるのです。「まこと」は、形容詞で、神の誠実の現れを意味します。
神の御心からかけ離れたこの世に対して、神様が御自分の真実を現されることを求めたのです。それは、裁きをなさることです。その裁きは、この人たちの血の復讐です。神の御心を行う者たちを殺すことで、神の御心を無視し、逆らう者たちに対して、神が現す真実は、血の復讐です。それが神として正しいことです。その聖なるまことの神である主のご性質が血の復讐というかたちで現されることを求めたのです。彼らは、怒りに燃えて復讐を要求したのではなく、神の性質が世に対して現されることを求めたのであり、神の栄光の現れを求めたのです。
6:11 すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。
彼らには、白い衣が与えられました。それは、義であることを表しています。命を捨てて神の御心を実現したので、義とされたのです。衣として与えられることで、彼らが義であるという彼らの栄光が永遠に現されることになります。
6:12 また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
地震は、この世の物を揺るがすために与えられました。
ヘブル
12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」
12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。
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人が揺り動かされないもののように考えていたものが、実は、なんの頼りにもならないものであることを明らかにするためです。
太陽は、神の栄光の現れを表しています。
詩篇
19:4 しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。
「太陽に関しては、その言葉は、その線(軌道)を、全ての地を通り地の果てまでも行く。」
言葉としての知識はないのですが、神様は、言葉を世界の果てまで届けました。それは、太陽によります。ですから、この太陽は、比喩になっています。今まで、天体に関しては、「話もせず」と記されていました。ここでは、言葉が届けられると記されているからです。
そして、太陽のために幕屋が設けられました。
19:5 花婿のように太陽は部屋から出て勇士のように走路を喜び走る。
そして、太陽は花婿に例えられています。それは、言葉を届けるものが太陽なのですが、それは神の言葉としてのイエス様の比喩になっています。前節で幕屋が設けられたことは、イエス様が肉体を取られることの比喩です。神の言葉としてのイエス様が肉体を取られて、全世界にその言葉を届けられるのです。これは、福音を伝えたという意味ではなく、イエス様が全世界に届けられたことを表しています。イエス様の働きは、イスラエルとその近辺に限定されているからです。
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その太陽は、光を失いました。神の言葉は、届けられなくなったのです。毛で織られた粗布は、預言者の衣です。神の言葉は、預言者の口を通して与えられていたのです。しかし、その光はなく、黒くなりました。
月は、太陽の光を受けて輝きます。それは、神を信じた者たちのことを現していて、神の言葉を受け、神と同じ栄光を現す者とされているのです。しかし、このとき、月の色は、血のようになりました。血は、命を表しますが、このように血が外に現れた時には、命が失われることを表しています。神の光を受けるならば命があるのですが、その命が失われるのです。
6:13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。
天の星は、神に仕えるしもべの比喩です。神に仕えることで栄光を受けるはずの者が、その栄光を失い地に落ちるのです。仕えることで、実を結ぶ筈の者が、熟すことなく実を落とすのです。大風は、神の裁きです。
6:14 天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。
天は、人の望みとして示されていたものです。それは、栄光に満ちた永遠の世界です。それは、巻物である御言葉によって示されていたものです。しかし、それが巻かれるように消えてなくなりました。もはや、その希望は失せたのです。それは、彼らがそれを拒んで来たからです。
山と島は、人が揺るぎないものとしていたものです。しかし、それらがかつてあった場所から移されました。
6:15 地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。
人は、その山の洞穴や岩間を頼りとして身を隠すのです。
6:16 そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。
6:17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」
彼らは、山々や岩を頼りとします。それで身を覆うことで、神と子羊の怒りから隠されようとしたのです。彼らは、真の岩であり、隠れ処である主イエス様を頼ることをしなかった結果なのです。
詩篇
18:2 主はわが巌わが砦わが救い主身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら。
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